東大生の墓所探訪


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芥川龍之介@慈眼寺

芥川龍之介の墓

芥川龍之介の墓

 東京都豊島区、巣鴨駅から徒歩10分弱のところにある寺院、慈眼寺。ここに、大正時代の文豪、芥川龍之介が眠っています。

 彼は1892年(明治25年)3月1日、東京市京橋区(現・東京都中央区)で生まれました。中学での成績は優秀であり、第一高等学校には無試験での入学を果たします。一高時代に菊池寛や久米正雄などと出会い、東京帝国大学文科大学英文学科入学の翌年の1914年(大正3年)、彼らと同人誌『新思潮』を刊行して作家としての活動をスタートさせます。さらに2年後には級友の紹介で夏目漱石の門下に入り、積極的に執筆活動を行いました。この頃の作品として『羅生門』『鼻』などがあり、特に『鼻』は漱石にも絶賛されたといいます。

 1916年(大正5年)に東京帝国大学を卒業、同年から海軍機関学校の教官を務めるかたわら創作活動を続けます。2年後には教職を辞して大阪毎日新聞社に入社、新聞への寄稿を職として創作に専念するようになります。翌年に結婚、さらに2年後の1921年(大正10年)には海外視察員として中国を訪問するなど、充実した日々を過ごしますが、この頃から体調が思わしくなくなりはじめました。これ以後の晩年の作品としては『歯車』『河童』などが有名です。

 何度か湯河原へ療養のために赴いていますが、それでも体調はあまり改善しなかったようです。そして、1927年(昭和2年)7月24日未明、「将来に対する唯ぼんやりした不安」を理由に、服毒自殺にて35歳の若さでその生涯を終えました。

 彼が亡くなった8年後の1935年(昭和10年)、第一高等学校時代からの親友であり、当時文藝春秋社主でもあった菊池寛の手により、直木三十五賞(直木賞)とともに芥川龍之介賞(芥川賞)が設けられ、現在まで続いています。

担当: 金井雄太 *

慈眼寺

慈眼寺

慈眼寺

慈眼寺

加藤高明@青山霊園

東大OBとして初めて内閣総理大臣になったのは誰か、皆さんはご存知でしょうか?

 のちに第24代内閣総理大臣となる加藤高明は、1860年(安政7年)に尾張海東郡佐屋(現・愛知県愛西市)の下級藩士の次男として生まれます。旧制愛知県立第一中学校、名古屋洋学校を経て東京大学法学部を首席で卒業。その後は三菱に入社し、三菱本社副支配人まで上り詰め、三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の長女春路と結婚します。

 その後は官界、政界で実力を発揮し、第4次伊藤内閣および第1次西園寺内閣、第3次桂内閣、第2次大隈内閣の外相のほか、駐英公使、東京日日新聞(のちの毎日新聞)社長、駐英大使などを歴任します。また、衆議院議員、貴族院議員も務めています。第2次大隈内閣時代には、第1次世界大戦参戦や対華 21ヶ条の要求などを行っています。その後、憲政会の初代総裁に就任しますが、第一党であった政友会に対して劣勢を強いられます。

 その後、第2次護憲運動の流れに乗って憲政会が第一党となり、1924年(大正13年)に内閣総理大臣となります。現在までに東大は15人の首相を輩出していますが、彼がはじめての東大出身の首相です。そして、普通選挙法の成立やソ連との国交樹立などを実現させます。

 しかし、1926年(大正15年)1月、肺炎のため帝国議会内で倒れ、そのまま6日後に亡くなります。政権は憲政会の若槻禮次郎に引き継がれ、その後犬養内閣まではいわゆる「憲政の常道」に基づいた組閣が行われるようになるなど、政党政治を確立した政権だったと言えるでしょう。彼は今、青山霊園の一角で静かに眠っています。

担当: 金井雄太 *

加藤弘之@雑司ヶ谷霊園

 東京大学は1877年(明治10年)に東京開成学校と東京医学校が合併して発足しましたが、4年後の1881年(明治14年)に東京大学職制が制定され、法学部・理学部・文学部・医学部の4学部と予備門を統括する総理が置かれました。その東京大学の初代総理となったのが、東京開成学校の総理でもあった、政治学者の加藤弘之でした。

 加藤弘之は1836年(天保7年)に、現在の兵庫県豊岡市で、出石藩士の長男として生まれました。16歳で江戸に出て、洋式兵学や蘭学を学び、明治維新後は元老院議官、貴族院議員などさまざまな官職を歴任します。加藤は1874年(明治7年)の著書『国体新論』で立憲政体をすぐれたものであると主張していましたが、1882年(明治15年)の『人権新説』では一転して社会進化論の立場から民権思想を批判しました。

 1890年(明治23年)から3年間にわたってはふたたび帝国大学(のちの東京帝国大学)の総長を務め、のちに帝国学士院長や枢密顧問官を歴任し、1916年(大正5年)に79歳で死去しました。

 加藤弘之の墓は、雑司ヶ谷霊園の一角にあります。

担当: 小長谷貴志 *

雑司ヶ谷霊園

雑司ヶ谷霊園

鎌倉霊園

鎌倉霊園

川端康成@鎌倉霊園

 日本人初のノーベル文学賞受賞者は1899年(明治32年)に大阪の現在の天神橋付近に生まれました。幼くして両親を亡くし祖父母とともに現在の茨木市に引っ越します。しかしその後も8歳の時に祖母を、16歳の時に祖父を亡くし母の実家に引き取られます。11歳の時に別居中だった姉も亡くしており、幼少時は自身も病弱だったので彼にとって死は身近なものだったのかもしれません。

 1917年(大正6年)に第一高等学校の英文科に入ります。翌年の秋に伊豆へ旅行した時の旅芸人とのやりとりが後の『伊豆の踊り子』で書かれることになります。

 1920年(大正9年)に東京帝国大学文学部英文学科に入学します。翌年、同人誌『新思潮』を仲間らと創刊し、そこで発表した「招魂祭一景」が菊池寛に評価されて交流をもつようになったことがきっかけで文壇への道が開けました。『伊豆の踊り子』は1年ほど長く在籍した大学を卒業したあと横光利一らとともに創刊した同人雑誌『文藝時代』にて発表されています。

 1968年(昭和43年)「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、彼の叙述の卓越さに対して」ノーベル文学賞を受賞し、授賞式では「美しい日本の私 その序説」という記念講演を行いました。

 1972年(昭和47年)逗子マリーナ・マンションの仕事場でガス自殺をしました。門下の三島由紀夫の割腹自殺や老いへの恐怖などが動機と推察される一方で、自殺ではないとする意見もあるそうです。小さな頃に多くの身内の死に触れた偉大なる文豪は何を思って死んでいったのでしょうか。彼のお墓の前で考えてみるのもいいかもしれません。

担当: 養田直倫 *

鎌倉霊園

鎌倉霊園

鎌倉霊園

鎌倉霊園

北里柴三郎@青山霊園

 北里柴三郎は1853年(嘉永5年)に当時の北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)で生まれました。

 当初は軍人を目指していましたが、両親の勧めで熊本医学校に入り、そこでオランダ人医師マンスフェルトに出会ったことが彼を医学の道へと導きました。

 1874年(明治7年)にはのちの東京大学医学部である東京医学校に入学し、そこで「医者の使命は病気を予防することにある」との確信を得て、その実践のために内務省衛生局へと就職をします。

 同郷で東京医学校の同期生であった東大教授兼衛生局試験所所長の緒方正規の計らいで1885年(明治18年)にドイツのベルリン大学への留学を果たします。そこで当時、病原微生物学研究の第一人者であったローベルト・コッホに師事し、1889年(明治22年)に世界で初めて破傷風菌のみを取り出す破傷風菌純粋培養法に成功します。さらに翌年にはその毒素に対する免疫抗体を発見し、それをもとに血清療法を開発して世界を驚かせました。

 1892年(明治25年)に帰国した後、福沢諭吉の援助を受け私立伝染病研究所を創立し、翌年には日本初の結核治療専門病院であり北里研究所病院の前身である土筆ヶ岡養生園を設立します。さらに1894年(明治27年)には香港に出張してペスト病原菌を発見するなど予防医学の先駆者として活躍しました。

 伝染病研究所の所長を辞任した後はただちに私立北里研究所を設立し、他にも慶応義塾大学医学部を福沢諭吉の遺志を継いで設立したり、乱立していた医師会をまとめた日本医学会を設立したりと、研究だけでなく教育や社会活動においても幅広く活躍をしました。

 日本の医療に多大なる貢献をした彼ですが、ドイツ滞在中に緒方正規の学説に批判したことからその後東大の医学部と対立しつづけることになります。そんな彼は今の東大医学部をどのように見ているのでしょうか。大先輩に叱られないように医学部の方々には頑張っていただきたいところですね。

担当: 養田直倫 *

小林秀雄@東慶寺

小林秀雄の墓

小林秀雄の墓

 『様々なる意匠』『無常といふ事』『考えるヒント』などで知られる小林秀雄は、日本を代表する評論家です。その批評は、批評の形をとりつつも自己の内部を表現するものであり、批評を文学作品の付随物の立場から自立させ、一ジャンルにまで高めたとされます。

 彼は1902年(明治35年)東京市神田区(現・東京都千代田区)に生まれ、1928年(昭和3年)東京帝国大学文学部仏蘭西文学科を卒業しました。翌1929年に雑誌『改造』の懸賞論文で『様々なる意匠』が二席に入賞し、文壇デビューを飾ると、1935年(昭和10年)には文藝春秋が発刊する『文學界』の編集責任者となりました。同年『ドストエフスキイの生活』の連載を開始する一方、『私小説論』を発表しました。

 大戦中は古典芸術・音楽・造形美術・歴史の世界に没頭し、戦後それらをまとめた『無常といふこと』『モオツアルト』『ゴッホの手紙』『考えるヒント』を著し、1967年(昭和42年)文化勲章を受章しました。

 20代の時に移り住んだ鎌倉において、貸本屋「鎌倉文庫」の活動など、鎌倉文士の中心人物の一人としても活躍していましたが、1983年(昭和58年)腎不全のため亡くなりました(享年80歳)。葬儀は東慶寺において密葬されたとのことです。

 現在でも、小林秀雄の評論は高等学校の現代文の一部教科書に掲載されているので、読んだことがあるという人も多いのではないでしょうか。

担当: 大野雅博 *


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掲載日:08-11-02
担当:栗田萌
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