ダンヌンツィオに夢中になった頃

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第64回駒場祭、最初の公開講座。担当されたのは東京大学総合文化研究科でイタリア文学を研究されている村松真理子准教授、タイトルは「鴎外、漱石、三島も読んだダンヌンツィオ」です。会場には、やや高い年齢層の方を中心に多くの人が聴講に訪れていました。

ダンヌンツィオ(1863生-1938没)はダンテと並びイタリアの二大作家と称される世界的な流行作家で、彼の詩や小説、劇作はイタリアを始めフランス、アメリカ、ドイツ、日本で広く愛されました。2013年、彼の生誕150周年を記念して世界各地で関連イベントが催されました。東京大学でもヴィットリアーレ財団との共催で10月19日から12月13日まで駒場博物館の特別展「ダンヌンツィオに夢中だった頃―ガブリエーレ・ダンヌンツィオ生誕150周年記念展」が開かれ、本講座もその特別展との連動企画として行なわれました。

講義は博物館での特別展示に合わせた構成で、最初にダンヌンツィオの生涯と当時の世界、次に日本におけるダンヌンツィオ流行という順でお話がありました。

ダンヌンツィオは地方都市ペスカーラの裕福な家庭に生まれました。若くして才能を開花させ、高校時代に自費出版した処女詩集はのちのノーベル文学賞作家カルドゥッチからも高い評価を得ます。その後ローマの大学に進学し、華々しい社交生活を送ります。この頃、ダンヌンツィオは当時黎明期(れいめいき)にあった新聞に何度も寄稿し知名度を上げ、小説『快楽』で文芸界デビューを果たしました。その後ローマからフランカヴィッラ、フィレンツェ、フランスと居を転々としながら、賞賛の声と美しい女性とともに暮らし、小説や戯曲を書き続けます。本人監修のフランス語訳も出版され、ルネッサンス以降文化的に衰退したと思われていたイタリアから気鋭の作家が生まれたと話題になっていきます。

ダンヌンツィオは音楽性のある言葉を紡ぎ、20世紀の詩語を生み出していきました。文章だけでなく本の見栄えにも気を配り、美しい装丁の本を一般に広めたのも彼の大きな業績のひとつです。またダンヌンツィオは新しい物を好み、新聞のような生まれたばかりのメディアを利用した現代的な宣伝手法を拓いたり、実用化が始まったばかりの飛行機を自ら操縦したりと常に最先端を行っていた人物でした。

世界的作家としての地位を確固たるものにしたダンヌンツィオは、第一次世界大戦ではイタリアの地位向上のため参戦を主張し、兵士を鼓舞する演説を行いました。愛国詩人として人気を高めながら、さらに当時オーストリアからの奪還を目指していたフィウメへ行進し、無血入場を果たします。ダンヌンツィオはこの事件で国際的な弾圧を受け、晩年はヴィットリアーレで過ごします。国内での人気は依然として高く、それを恐れつつも利用しようとしたムッソリーニの懐柔を冷めた目で受け入れながら、自嘲するところの「金の牢獄」で波瀾万丈の人生に幕を下ろしました。

日本でもダンヌンツィオは人気で、上田敏や森鴎外、三島由紀夫によって日本語に訳され、彼らの作品にも大きな影響を与えました。ダンヌンツィオの愛国の精神も当時の日本で理想とされ、その点でも多くの日本人から慕われました。ダンヌンツィオは日本の文化に強く惹かれていたようで、現存している邸宅には東洋的、日本的な物が多く置かれていました。1920年にはダンヌンツィオがローマから直接東京へ飛行機でやってくるという企画が本人の希望で持ち上がり、日本中が沸き立ちます。結果的にダンヌンツィオ自身は不参加となりましたが、連続飛行自体は成功し、その後何度も日本への招聘(しょうへい)が準備されました。本人の訪日は最期まで叶いませんでしたが、日本の著名人たちが何度もダンヌンツィオに賞賛の手紙を送り、日本でのダンヌンツィオ人気は昭和まで続いたのでした。

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先生は最後に、今ダンヌンツィオを追いかけるということの意味から、文学そのものについて考察を述べられました。 ダンヌンツィオの作品を読むとき、私たちは一人です。しかし、ダンヌンツィオを追ってイタリアを訪れれば、そこでかつて生きたダンヌンツィオと出会うことができます。そして、他の誰かとダンヌンツィオについて語り合えば、そこでまた新たな営みが生まれます。このように、読み、訪れ、語り合うことで、より文学を楽しんでほしいというメッセージをもって、講義は締めくくられました。

ダンヌンツィオについてほとんど知らなかった筆者にも分かりやすい講義で、彼の魅力にまさに夢中になった1時間半でした。

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担当:平山いずみ
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