いのちのバトンタッチ

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「いのちのバトンタッチ」と題された青木新門先生の講演は、映画『おくりびと』や俳優の本木雅弘さんと青木先生との関係の話を皮切りに始められ、後半では青木先生の半生を振り返りつつ、先生の死生観・「いのち」について感じたことが語られました。

ある日、青木先生の家の電話が鳴りました。出てみると、俳優の本木さんからでした。「インドで写真集を撮影したいのだが、そこに青木先生の著作の文章を引用させてもらえないか」。あまりに唐突な申し出に、青木先生はびっくりしたといいます。

インドに旅行に行った本木さんは、彼の地の死生観を目の当たりにして息を飲みました。ヒンズー教マヌ聖典に記された「理想的な生き方」に則って、ガンジス河のほとりには大勢の「出家」した老人たちが死を待っていたのです。そこは聖地であり、死者が流れる川で巡礼者が沐浴をするという生と死が入り混じった空間。本木さんはその時、同行していたカメラマンが持っていたという青木先生の『納棺夫日記』を読んだのです。

やがて青木先生の元に、『HILL HEAVEN-天空静座』と題打たれた一冊の写真集が届けられました。ガンジス川に身を乗り出し、手に小さな火を抱えた(「送り火」と言って、日本の精霊流しのようなものです)本木さんを撮った写真に引用されていた言葉は、『蛆も命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた』。「本木さんもあの風景を見たのではないか」と青木先生は仰いました。

やがてこの本を元に映画を作りたいと考えた本木さんでしたが、青木先生と脚本の相違から、『納棺夫日記』が映画『おくりびと』の原作としてスタッフロールに流れることはありませんでした。

そんな青木先生は、富山県に生まれて旧満州国で育ちました。8歳で終戦を迎え、弟と妹を亡くした難民収容所での生活を経て日本へ帰国。早稲田大学に入学しますが中退し、文学を志しながら地元富山県で店を経営していたある日、作家・吉村昭さんが店を訪ねてきます。影響を受け、「小説を書こう」と思い立った青木先生は東京で『柿の炎』を著し、それが当時有名な同人誌『文学者』に載りますが、経営していた店の倒産を受けて富山県に再び戻ります。

仕事を探していたときに目に留まった、新聞の広告欄。地理的に近いこともあり、何の会社なのかも知らないまま一度顔を出そうと訪ねた青木先生。応募理由を尋ねられ、正直に「娘のミルクを買うためです」と答えたら「ミルクを買って、出直してこい」と手に金を握らされたといいます。そして、その冠婚葬祭会社で納棺師として働くことになりました。

ところが「死」に直接的に触れる仕事ですから、風当たりも強かったといいます。子供のころ世話になった叔父には「親族の恥」と罵られたこともありました。日に日に仕事以外では外に出なくなり、人目に触れるのを避けるようにすらなってしまった青木先生でしたが、かつての恋人の父親を湯灌・納棺したときに、彼女の自分を「丸ごと認める」ような視線に自信を取り戻します。

青木先生はこの「丸ごと認める」という単語を講演会中何度も使い、「丸ごと認められたら、どんなに追い詰められていても生きられそうな気がするんだ」と感慨深げに語りました。

そして青木先生にまた転機が訪れます。以前自分を罵倒した叔父が末期ガンで入院し、その見舞いに行ったときのことです。あれほど憎み合っていた叔父が、死の直前に「ありがとう」と柔和な笑みを浮かべたのです。これもまた、叔父に「丸ごと認め」られた瞬間でした。それからというもの、きちっとした服装と態度で仕事に臨むようになり、世間の評価がガラリと変わったといいます。

こうして納棺師としての仕事を続けてきた青木先生ですが、講演で語られた「死を受容したとき、あらゆるものが輝いて見える」という言葉が特に印象深いものでした。先生によると、亡くなって2時間以内の死者の顔はとても穏やかだといいます。しかし自宅外死亡率が9割を超えた現在の「死」に対する向かい合い方はどこか素っ気なく、「『知』で死を認識している」と青木先生は仰っています。

死の「現場」に立ち合い、死を「五感」で捉えることこそが大事だ――死に様は生き様である――そう仰って青木先生は講演を終えられました。

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担当:小西達也
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