ドイツ語

駒場で必修となっている第二外国語の中でも履修者の割合の高いドイツ語。今回は「ドイツ語」の授業を担当されている足立信彦教授にドイツ語の特徴や授業をする際に心がけていることなどを聞いた。


1.ドイツ語について | 2.学生に対して


ドイツ語の特徴

ドイツ語は論理的な言語と言われることもありますが、必ずしもそれが正しいとは言えません。論理学や数学での論理性と言語の文法上のいわゆる括弧つきの「論理性」は分けて考えるべきで、私は世界中の言語を知っているわけではありませんが、数学や論理学での論理性はたいていの自然言語で表現できると思っています。もちろん、昔は日本語に無限集合という単語が無かったように、論理学や数学の論理性を表現するための単語が無い場合もあると思いますが、単語を入れるのは難しいことではないし、それを理解させることもそんなに難しくないと思うんです。その意味では自然言語に論理性の差は無いと思います。日本語は主語がはっきりしないから、主語や目的語がはっきりしている欧米系の言語に比べると非論理的だと言われますが、それは言語学的には間違った議論ではないでしょうか。

それでは、ドイツ語が論理的と言う時に人が何を考えているかというと、ヨーロッパ言語の特徴ですね。ドイツ語がこのように言われる理由は、格や人称変化などのルールの厳密さみたいなものですが、これはヨーロッパ系の全ての言語がもともと持っていた特性です。昔はヨーロッパ祖語という言語があって、格や人称変化を今の言語よりはるかに精密に備えていたと考えられています。そこから全てのヨーロッパ系の言語、例えばインドのサンスクリット語、それからラテン語とかギリシャ語とかが出てきて、さらにフランス語・イタリア語・スペイン語等が出てきました。英語はその一番端の端ですね。英語に格や人称変化がほとんど無いのは全部磨り減ったからで、人称変化が残っているのは三人称単数のsくらいです。しかし、もともとは1つの非常に厳密な構造を持った言語があり全部その子孫です。だからドイツ語が論理的だというのは、その厳密なルールをどのくらい残しているかという差に過ぎません。ただ、ドイツ語が文法的な整合性にうるさいことは確かで、それは当たり前でルールが多いからです。逆に言うと英語はルールが少ないから整合的かどうかもよくわかりません。だからといって英語の表現力や論理性が劣るわけではないので、これは単なる個性の違いと考えればいいと思います。

ドイツ語の学びやすさと学びにくさ

学ぶ人の性格によりますが、ルールがはっきりしているのでそういうのが好きな人には学びやすいと思います。英語だと1つ学んでその応用で次の表現を考えると、それが間違った表現であることはよくあります。こういうときは別の言い方を使うんだと、理由無く言われることもあるでしょう。例えば英語ではtoの後に動詞の原形を持ってきて不定詞を作りますよね。ドイツ語ではzuを使いますが、助動詞が用いられる時は動詞の代わりをしているので、zuの後に助動詞を持ってきても構わないというのがドイツ語の発想です。zu können(編注:英語のcanに似た単語) と言えるわけです。しかし英語は、to canじゃだめだからto be able to にしろと言われる。to mustはだめだからto have toになる。じゃあcanではなくshouldやmayだったらと考えるときりがありません。だけどドイツ語はzu können ,zu müssen, zu mögen となんでもできます。そういう意味でのある種の単純さがありますね。学びにくいところはドイツ語の厳密さと表裏一体で、定冠詞の変化からしていやになる人も多いと思います。ルールが細かくていやだ、語尾変化がめんどくさい、と思う人もいるでしょう。

講義の特徴や心がけていること

ドイツ語

基本的に1学期は文法的なことをメインでやります。文法の教科書は毎年改訂されていますが、中身はほぼ同じです。井の頭線の電車の中で学生が「ドイツ語の教科書っていかにも勉強する気を無くすような教科書だよな」と話していたらしく、まあそうかなあと(笑)。例えば駒場の先生が作ったスペイン語の教科書は色がついていてきれいですよね。カバーもわかりやすそうですし。それと比べると、ドイツ語の教科書は気持ち湧き立つ教科書ではないかもしれません。さすがにこの教科書は少し詳しすぎるかなという気もして説明を省くこともありますが、多少弁護すると、ドイツ語は最初に細かい規則をやらないわけにはいきません。格や人称変化を無視して英語みたいに単語を並べても最初の意味はわかりますが、それで済ませてしまうと絶対その先に行けません。

日本の学生が大学で第二外国語を勉強する理由は、私としてもよくわからなくて悩んでいますが、基本的にその国に移住して移民労働者になるためではありません。さしあたりお店でりんごが買えればいいというものでもありません。だから、ただ通じればいいというわけではないんです。そう考えると、多少は洗練された表現ができる言語的な手段として言語を学んでほしいと思っています。表現の多様性は言語によって非常に様々で参考になることも多く、それを知るためにも基礎的な知識はしっかり入れるべきですね。それにしてももうちょっと陽気な教科書でもいいと思いますけど(笑)。

2学期は『Horizonte』という短編集を読みます。1年中文法だけやっていても楽しくないし、習った文法を活かすことも大切だと思うのですが、駒場の教育環境では人数が多いので喋ったり聞いたりする学習環境を必修としては提供できません。そうするとどうしても何か読むことになります。できれば少しでも楽しく興味のあるものを読んでもらいたいと思うのですが、なかなか難しいです。理系のクラスだから理系のテキストがいいかというと必ずしもそうではないようです。昔理系ばかりのドイツ語既習のクラスで、何を読みたいか聞いたら「アインシュタインの相対性理論の論文が読みたい」と言う人がいて、「私は内容はわからないから理系の君たちが内容を説明してね」と言って読み始めたら、文法的にはわかるのに内容が全然わかりませんでしたね。理一の人もわかっていない様子でしたし。逆に、教師が理系のテキストを選んだら、どの道文系の教師だから新聞の科学欄の記事にも劣る素人っぽい内容のものになったりしますからね。

言語が持つ社会的意義

誰でも言うと思うけど、新しい言語をやれば違う考えに触れるきっかけになります。例えば私は自分と考えの違う人と出会うと、直接意見をぶつけるのではなく、何故そう考えるのかなって考えることが多いです。こういう考え方を相対主義と呼びますが、そうするとその人が生まれた環境とか教育とか、もう少し抽象的にいうと世界観を形成するいろんな要素を考えてしまいます。そして世界観を作る重要な要素の1つが言語だと考えられます。これは異論もありますが、ある特定の言語には特定の世界観がついて回るという考え方があり、そうすると相手がそう考える理由を考える時に、相手の環境や教育以外に相手が使っている言語のあり方も考える必要があります。これは個人に対してだけでなく、他の民族・文化・文明に関しても言えますよね。むしろその場合の方が言語が重要かもしれません。

ただ、言語と世界観の因果性は自然科学的には証明できません。経験的にはドイツ人はルールや細かいことにもうるさいと感じますが、個人差がありますし、仮にそれが全体的傾向と言えても、それが言語の構造に関係しているかは誰も証明できません。

証明できないにせよ、いろいろな言語に社会的イメージがあるのは事実でしょう。陽気な人はラテン系なんて言いますよね。さっきスペイン語の教科書は綺麗と言いましたが、やはりドイツ語の先生とスペイン語の先生では集団として見ると雰囲気が違います。学ぶ言語によって性格が変わるからというよりは、ドイツやスペイン、又はドイツ語とスペイン語が持つ社会的なイメージがあり、各々の日本人がドイツ語やスペイン語の専門家になると決める時に自分はどんな人間か無意識に考えるからでしょうね。私はこういう性格だからドイツ語にしようとか、陽気だからスペイン語が向いているとか、はっきり考えるかはわかりませんがそんな感じです。それで自然にドイツ語の教師はあの文法の教科書みたいな感じになるのかもしれませんね(笑)。

だから大雑把に考えれば、違う言語を学ぶことが、違う人々の考え方を覗く入り口になるのではないでしょうか。相対主義と言いましたが、誰もがそう考えるべきというわけではありません。しかしそう考えることで解決できる問題は多いと思います。特に宗教や文化の違いに関わることですね。


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掲載日:08-09-19
担当:栗田萌
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